翌28日、ナポレオンのポーランドの妻と呼ばれたマリー・ワレフスカが息子のアレクサンドルを連れてマルメゾンを訪れた。彼女はアレクサンドルを連れてエルベ島にも尋ねて行ったし、エルベ島から帰還した時もワーテルローから帰った時もすぐにナポレオンに会いに行ったのだった。
マリーはポーランドの古い貴族の家に生まれた。父親は彼女が八歳の時、ロシアに対して起こした独立戦争で死亡した。彼女は十四歳でノートル・ダム・ド・ラ・ソンプションという格式の高い修道院に入って、教育を受けた。十六歳で家に戻って一ヶ月後、六十八歳のワレフスキー伯爵と結婚させられた。
彼は二回の結婚歴があり、マリーより52歳年上で一番幼い孫がマリーより六歳も年上だった。マリーの実家は、父親の死後五人の子供を貴族の子女として教育するために借金がふくらんでいた。ワレフスキーはそれを返済してくれる約束だった。実家を救うために彼女は泣く泣く結婚したのだった。そして息子アントワーヌが生まれていた。
1807年1月1日、ナポレオンはロシア軍との戦闘を中止してワルシャワに帰った。ポーランドは1772年、1793年、1794年と三回にわたって、ロシア、オーストリア、プロシアに分割されて、事実上国は消滅していた。1805年オステルリッツの戦いでロシア、オーストリア軍に大勝し、翌年強大なプロシア軍を屈服させた英雄ナポレオンは祖国ポーランドの再建を願う愛国者たちにとっては、まさに救世主だった。ポーランドを再興してくれるのは彼をおいてはないと彼らは皆考えていた。以前から志願してナポレオン軍の兵士になる若者も少なくなかったのだ。
ロシア征服を悲願としていたナポレオンにとっても、ロシア遠征の足がかりとなるポーランドをぜひとも傘下に治めたかった。ポーランドを王国にして統治する必要があったのだった。ナポレオンを一目見たいと沿道に群集が待っていた。ワルシャワに入る前に、ブロニーの村で馬車の馬を変えた時も村人たちが集まっていたが、その中に透き通るように白い肌の、美しい金髪の女性がいた。
「ようこそおいでくださいました」
フランス語で彼女はそう言った。粗末な農婦の服をまとってはいたが、その美しさから高貴な女性であることをナポレオンは一目で見抜いた。
ワルシャワでは凱旋将軍を迎えるかのように、家々の窓から女性たちがキスと花束を投げて熱狂的に歓迎した。
1月7日、十一年間放置されていた旧宮殿でナポレオンを歓迎する舞踏会が開かれた。貴婦人たちは皆最高に着飾って出席した。そこでナポレオンはブロニーで見初めた女性を発見する。それがマリーだった。
1月14日、ナポレオンは民衆の期待に応えるかのようにポーランド臨時政府を樹立した。17日にはタレイラン外務大臣主催の舞踏会が開かれた。ナポレオンが自分に関心を持っていることを知ったマリーはシンプルな白いサテンのドレスを着て、マートル(銀梅花)の花飾りを美しい金髪に飾っていただけだったが、それが彼女の若さと美貌を引き立てる結果になった。
ナポレオンは彼女の清楚な美しさに惹かれ、彼女を求めた。彼女は抵抗したが、周囲の人々は、彼女の夫までも、ポーランドのために彼女がナポレオンの意に従うことを強いた。マリーは祖国再建のためにナポレオンの要求を受け入れた。1月30日にナポレオンがワルシャワを発つまで、毎夜彼のもとに通い、その後フィンケンシュタインの城館に司令部ができるとそこに呼ばれてナポレオンと過ごした。
七月七日、ティルジット条約でナポレオンはプロイセン領ポーランドをワルシャワ大公国として独立させた。彼はポーランド人の悲願の一部をかなえてくれたのだ。マリーは次第にナポレオンを愛するようになっていく。ナポレオンがフランスに戻った後、翌年二月にはパリに住むようになった。
ウイーンのシェーンブルン城でナポレオンの子を懐妊した後、マリーはポーランドに帰り、1810年5月4日アレクサンドルを出産した。マリーの夫のワレフスキー伯爵は自分の妻が産んだ子供だからということで自分の子として入籍した。というのもマリーが妊娠したことで自信がついたナポレオンは、彼の子供を産まなかったジョゼフィーヌを離婚し、オーストリアの王女マリー・ルイーズと結婚したからである。
アレクサンドルが誕生した時、ナポレオンは結婚一ヶ月のマリー・ルイーズとベルギーを旅行中だった。そして翌年、マリー・ルイーズはナポレオン二世となるべきローマ王フランソワ・シャルル・ジョゼフを出産した。生まれた子が男児であればローマ王の称号を持つことはナポレオンとマリー・ルイーズの婚約が成立した直後に元老院令で決定されていたのだった。
マリーはアレクサンドルとともにパリに住み、1812年8月には夫との離婚が成立した。彼女は控えめな性格だった。フランス語もイタリア語も巧みではなかったからでもあるが、彼女は社交が苦手だったし、オペラ座に観劇に行くことも好まなかった。他の女たちとは異なり、彼女はナポレオンに何もねだらなかった。つつましく、優しい女性だった。そしてナポレオンをひたすら愛した。
アレクサンドルは顔つきはやはりローマ王に似ていた。金髪で、目はマリアに似ていたが、頭の形はナポレオンそっくりで、口元がボナパルト一族によく似ていた。 彼は賢い子だった。ナポレオンが、
「いくつになったかな」と聞くと
「エルベ島で四歳半と言ったでしょう。あれから九箇月だよ」
と答えてナポレオンを喜ばせた。
「そうだった。ではいくつなのかな」
「五歳三箇月です」
「ほう。よく分かるな」
「ママが教えてくれるから」
「大きくなったら何になる?」
「忘れたの。エルベ島で言ったでしょう。ナポレオンのような軍人になるって」
「そうだった。そうだった。アレクサンドルはよく覚えているな」
「僕エルベ島のこと全部覚えているよ」
「そうか。楽しかったか」
「うん」
「よかったね」
「僕一生懸命勉強するんだ。ナポレオンのようになるために」
ナポレオンは我が子の賢さに満足した。将来きっと彼の片腕になってくれるだろう。
「アレクサンドルはナポレオンより偉くなるよ」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
五歳三箇月の息子の前では、ヨーロッパを震撼させたこの男も親馬鹿にすぎなかった。自分より偉い人間を認めようとしなかったナポレオンも我が子だけは自分より賢くなると信じていたのだ。
二人の会話を聞きながら、マリーは涙をこぼしていた。彼女は夫と子供とともに家庭を築いて、平凡に生きるために生まれてきた女性だった。それを妨げたのは彼女の美貌だった。しかし、彼女の美徳がナポレオンにとっては、だんだん重荷になってきた。彼はジョゼフィーヌと結婚した直後から、彼女の不倫に怒って離婚しようと思いながら、十三年間彼女と暮らした理由が分かり始めていた。
たしかにジョゼフィーヌは死にいたるまで節操がなかった。ナポレオンを裏切り続けた。浪費癖は止らず、借金を残して死んだ。それを彼は支払わされた。しかし、ジョゼフィーヌがそんな女だったからこそ、彼のほうも家庭というものに縛られずに、後顧の愁いなく戦場に赴くことができたのだった。
自分が死んでも妻のジョゼフィーヌは逞しく生きて行くという確信があったから、勇敢に戦い得たのである。子供がなかったことも彼を大胆にしていたとも言える。ナポレオンの栄光はジョゼフィーヌの並はずれた処世の才と子供がなかったことによって作り上げられていたのかもしれない。
ナポレオンにとってマリーは家庭的すぎた。ナポレオンは彼女を愛したことによって、並の男性の幸福を得たが、それによって並の男になりさがったのだった。彼自身そのことを感じ始めていた。何よりも彼を苦しめたのは彼女の涙だった。
ナポレオンと交渉のあった他の女性たちは皆それなりに逞しく、したたかだった。彼女たちは革命期の進歩的な女性で、自己を守り、自己に忠実に生きようとする意志と力を持っていた。ナポレオンの地位と名誉と権力に引き付けられていただけだった。
マリー・ワレフスカは彼女たちとは全くちがうタイプの女性だった。それは彼女がポーランド生まれだったということもあるだろうが、カンパン女史の進歩的な寄宿学校ではなく、アンシャンレジーム的な修道院で教育を受けたからかもしれない。ナポレオンは涙を流して泣き続ける女をどう扱えばよいのか分からなかった。彼はただアレクサンドルの頭を撫で続けるしかなかった。
アレクサンドルも母の涙を見て黙ってしまった。
扉を叩く音がしてオルタンスの声が聞こえた。
「パリからの使者が来ました。プロイセン軍がコンピエーニュとサンリスを占拠したそうです」
ナポレオンの顔色が変わった。コンピエーニュはパリ北東一〇〇キロの地点にある町である。とくにコンピエーニュは五年前にオーストリアから輿入れしてきたマリー・ルイーズを迎えた町である。ルイ十六世の妃マリー・アントワネットの姪を妻とした日の感激が、ナポレオンの脳裏には焼き付いている。
もう一度、もう一度あの栄光を取り戻さなければ!
ナポレオンはいても立ってもいられない気持ちに襲われた。
マリー・ワレフスカは立ち上がった。彼女は涙に潤んだ目で、ナポレオンをじっと見つめ、アレクサンドルの手を取って部屋を出た。
マルメゾン 6
