よろい戸を開けると外は光でいっぱいだった。にぎやかな鳥のさえずりが聞こえる。さわやかな風が緑のにおいを運んでくる。オルタンスはマルメゾンの朝が好きだった。窓から外の景色を眺めているだけで心が安らぐ。
「幸せだ」
と思う。母のジョゼフィーヌがこの館を残してくれたことを感謝する。そしてこの時を失いたくないと思う。
時計を見た。九時を過ぎている。
「今朝は静かなこと」
思わずつぶやいてからオルタンスははっとわれに返った。
「皇帝は?」
ナポレオンは眠らない人だった。夜どんなに遅く、というより朝になってベッドに入っても、または徹夜しても、明け方には必ず起き出す。そして音を立てる。それで皆起こされてしまうのだ。
「朝静かに眠りたいの」
母のジョゼフィーヌがいつも言っていた。ナポレオンとは反対に彼女は寝ている時間が長かった。朝九時にしか起きなかった。それが若さと美しさを保つ秘訣だったのだ。ベッドの上でハーブティかレモネードを飲み、それから入浴する。その後三時間をかけてエステティックをする。
ナポレオンはそれを非難するわけではない。ただ彼はじっとしていられない人だから、館の中を動き回る。それがジョゼフィーヌの神経にさわるのだった。初めの頃オルタンスは彼女の言いぐさをわがままだと思っていた。しかし、今はジョゼフィーヌの気持ちがわからぬではない。
朝静かに眠りたい。ルイと結婚していた間彼女もそう思い続けていた。
だが、今朝のこの静けさは? オルタンスはペローの『眠りの森の美女』の話を思い出した。もしや館が魔女の手によって眠らされてしまったのでは? まさか。しかし、それにしても。
オルタンスは扉を開けて廊下を見た。人影は見えなかったが、とりわけて異常はみられない。彼女はサロンに向かった。扉を開けた。
「おはよう」
一斉に声が上がった。皆がそこに集まっていた。レティツィア、ジョゼフ、リュシアン、ジェローム、それにコランクールも。
「おはようございます」
それだけ言うとオルタンスは大きく息をした。
「皆さん、すでにお目覚めだったのですか。物音がしないものだから…」
「そのことなんだよ。皆あまり静かなので、不審に思って、抜き足差し足でここに来てみたというわけで…」
ジョゼフが説明した。
「それでは皇帝が…」
「昔のように早くではないが、それでも毎朝六時までには起きるというのに…」
「今朝はまだお目覚めでない…」
「私たちはそれで心配しているのだ」
リュシアンが言った。
「もしかして。まさか。昨日はあんなに元気でアメリカに行く話をしていらしたではありませんか」
「あれがどこまで本心だったか。この前のことがあるし…あの子はだから目が離せないのだよ」
レティツィアが心配そうに口をはさんだ。
「あの時もおやすみになる前はエルベ島へ行ってからの計画をいろいろと話しておられました。だから、まさかあんなことをなさろうとは思いもしなかったのです」
コランクールが話し始めた。
前年の4月13日、フォンテンブロー城で、ナポレオンはモスクワ撤退の時から医師のイヴァンに処方させて自殺用に持っていた阿片を飲んで自殺を図ったのだ。
前日外務大臣だったコランクールは皇帝一家の処遇に関する条約を同盟国との間でとりまとめて報告に行った。ナポレオンは彼といろいろのことを話し合い、何事もないように就寝したのだった。
午前三時にコランクールは叩き起こされた。皇帝が苦しんでいるというのだ。いそいでナポレオンの寝室に行ってみると、彼はベッドの上でのたうちまわっていた。一目見て事態を把握した彼は「イヴァンを呼べ」と大声で叫んだ。
それを聞くとナポレオンは彼の上着を掴んで「誰も呼んではならぬ。私は、フランスのためにそして私自身のために、自殺するのだ」そう言って彼をはなさなかった。やがてナポレオンはしゃっくりを繰り返し、はげしく嘔吐を始めた。コランクールはやっと侍従武官長を呼び、医師のイヴァンを呼ぶように指示した。
イヴァンが到着した。「もう少し阿片をくれ」とナポレオンは言った。
「医師は人の命を救うのが仕事です。医師は自殺を助けることはできません」
イヴァンは断固として拒否した。「これは命令だ」とナポレオンが叫んだ。イヴァンは神経の発作を起こして倒れ、別室に運ばれ、自宅に帰ってしまった。ナポレオンはそのために自殺できなかったのだ。
コランクールの話を聞いて、オルタンスは言った。
「ワーテルローでも自殺を考えた。でもフランスをまもるために死を思いとどまった。皇帝は私にそう言われました。だからもう自殺をなさることはないと私は思います」
「そうであってくれればいいが…」
レティツィアの言葉が終わらぬうちにオルタンスはサロンを出て、ナポレオンの寝室に向かった。ドア越しに中の様子を探ったが、何も聞こえない。
彼女は思いきってドアをノックした。
「はい」
ナポレオンの声が聞こえた。オルタンスはほっとして思わずその場にうずくまった。
「オルタンスじゃないのか」
「はい」
「どうしたのかね」
足音がしてドアが開いた。
「どうしたのか。気分でも悪いのか」
「いいえ」
オルタンスの目から大粒の涙がこぼれた。
「一体どうしたというのだ」
「陛下のお目覚めが遅いので皆が心配して…」
「また自殺を図ったと思ったのだろう。きみに言っただろう。私は自決しないと。私はこれまでフランスの栄光のために戦ってきた。フランス国民を信じている。よく眠ったよ。久しぶりだ。この三ヶ月間よく眠れなかった。夜中に目が覚めた。そして考え始めると寝付かれなくなるのだ。だが昨夜はぐっすり眠った。夢を見た。ジョゼフィーヌと会った。アメリカで彼女は花を育てていた。大きな花を持っていた」
ナポレオンはオルタンスの涙を拭いてやった。
朝のやさしい光が彼らを包んだ。
マルメゾン 4
