エリゼ宮のはるか手前でオルタンスは馬車を降りた。全ての門は閉ざされて、武装した兵士が両脇に立って警護している。不審な人物は一人たりとも通してはならないのである。「エリゼーナポレオン」という表札が掲げられた正面の門を避けて、コック(雄鶏)の鉄格子の門と呼ばれている裏門に回る。
オルタンスは大きな帽子を目深に被り、粗末な木綿のタブリエを着ていた。手伝いの女に借りた衣装である。パン売り女のように、パンを入れた手提げかごを持っている。
「パンの配達女です。パンを届けに来ました」
兵士の一人に近づくと、彼女はかごの底に入れてあった金包みを取り出して、兵士の一人に握らせた。彼は仲間の衛兵に目配せした。相手は頷いた。兵士は門の閂を外してくれる。わずかに開いた門の間からすり抜けるように中に入ると、彼女は厨房のほうに向かうふりをして中庭に、忍び込んだ。衛兵たちは表を向いたままである。彼女の行方を監視してはいない。
見とがめられないように、身をかがめて進む。一階の、庭に面した部屋の扉をこつこつとノックした。ナポレオンは1808年義弟のミュラをナポリ王に任命する引き換えに、彼が所有していたエリゼ宮をフランス国家に移譲させて、住居の一つにしていたが、ミュラの妻であったカトリーヌの居室だった、目立たないその部屋を居室にしていた。
オルタンスのノックに気付いたらしく、鍵を外す音がした。無言のまま、顔を見せたのはナポレオンその人だった。予想通り彼はその部屋にいた。
「ああ、オルタンス」
彼は小さい声を上げ、彼女の手を取って室内に入れると、扉を閉めた。
「よく来てくれた」
ナポレオンは彼女を抱きしめた。オルタンスにとってナポレオンは義父であり、義兄でもあった。
1815年6月21日、ナポレオンがベルギーのワーテルローで、歴史的な敗北を喫して、三日後である。勝利の女神に見放されてから、手のひらを返すように、人は去っていく。オルタンスがまだ自分のために働いてくれるかどうか、ナポレオンは計りかねていた。エルベ島に流されていた時は、彼女の母のジョゼフィーヌの計らいでオルタンスは同盟軍の保護を受けていた。今回も同じように同盟軍の側についているのではないかと案じていたのだ。
「ご無事で…」
オルタンスは、ゆっくりと体を離して、それだけ言った。この三日間考えに考えた末である。今のナポレオンを慰める言葉はそれ以外見つからない。一番傷ついているのは彼であり、哀れみは彼にとって屈辱でしかないことはよくよく承知していた。
彼女のその一言でナポレオンは安堵した。オルタンスはまだ自分の味方だ。自分を受け入れてくれた。彼は力を得た。一気に喋り始めた。
「ナポレオンは生きて帰った。ワーテルローで敗戦が確実になった時、まず自決を考えた。敗北はいやだ。敗けて帰るのは無念だ。死んでしまおうと思った。ナポレオン・ボナパルトの栄光を永遠に輝かせるためには、死を選ぶべきだと考えた。しかし、死ななかった。死ねなかったのではない。死ななかったのだ。
なぜか?
フランスを守るためだ。フランス人民が、革命によって、大きな犠牲を払って、やっと勝ち取った共和政治を存続させるために、死を思い止まった。もう一度兵を立て直して、改めて同盟国軍と戦い、勝利することが、ナポレオンに課せられた義務だと考えたのだ。
同盟軍はヨーロッパに共和政治が拡がることを恐れて、私をなきものにしようと結束している。君主政治を永遠に続けることができるという幻想のもとに、自分たちの権益を死守しようとしているのだ。
過ちは繰り返してはならぬ。また彼らにパリを占領させてはならぬ。
それゆえに、ナポレオンは急遽パリに戻って来た。
パリで三十万の軍を再編成して、同盟軍を撃退する。
あの愚かなルイ十八世が主権を取り戻せば、フランスの共和政治は滅亡する。革命の意義は消滅する。革命のために流された血は無意味となる。革命の前に逆戻りすれば、人民はどうなるか。折角彼らが革命で獲得した資産は剥奪される。
そうなってはならない。それゆえに彼らとともに戦わねばならぬ。これまで戦ってきたように。ナポレオンをこれまでを支えてくれたのは、彼ら人民なのだ。革命で得た彼らの財産を貴族どもが奪い返すような事態が起こらないようにしなければならない。そうだろう。
ナポレオンは、自らの栄誉や利益のために戦争をしたのではない。革命で誕生したフランスの共和政治を守り抜くためだった。人民はそのことをよく理解してくれた。今も理解してくれている。だからこそ、ナポレオンはエルベ島から帰還できたのだ。王の軍隊がナポレオンを助けてくれたではないか。
だが、議会はこの道理が分かっていない。見通しの立たないぼんくらの集まりだからな。老いぼれのラ・ファイエットはリュシアンに「ナポレオンのせいで、アフリカやスペインやロシアに三百万人の兵士の死骸が横たわっている」とほざいたそうだ。
「ナポレオンが退位すれば平和になる」と演説したらしい。イギリスに篭絡されたのだ。
議会がイギリスに屈服するか、それともナポレオンの軍事力を信用するか。いま情勢を見ている。 彼らがナポレオンを信用しなければ、ナポレオンは彼らを捨てる。フランスのために働くことを辞める。石頭は要するに石頭だ。彼らの頭を改善することは、ナポレオンにもできなかった。
ヨーロッパを諦めた。石頭のヨーロッパを捨ててアメリカに渡ろうと思う。フーシェが勧めてくれた。ルイジアナに行く。ルイジアナはアメリカに売ったが、フランス人の移民が多い。ヨーロッパの旧体制を見限って、アメリカに移住した新進気鋭の人物たちだ。彼らと手を結んで、新大陸で再びナポレオンの天下を作るのだ。
フーシェが船を手配してくれている。船が調達でき次第、ヨーロッパを離れることにする。フランスの革命を潰そうとするヨーロッパの国々と戦って、新しいヨーロッパを作ろうと戦って来た。ラ・フアィエットの言うように犠牲も出した。しかし、それは、ヨーロッパを新体制に変えるためだった。大衆を旧体制から救い出し、幸せに生きる道を拓くためだった。
だが、結局旧大陸を旧体制から抜け出させることはできなかった。もうヨーロッパに未練はない。
フランスよさらば、だ。新大陸で新しい世界を作る。ヨーロッパの石頭にはこりごりだ。古いものを壊して新しくすることは至難の業だ。というより、結局不可能なことだった。新しい体制は無からしか作れない。よくよく分かった」
ナポレオンはここまで一気に喋った。これまでと変わらぬナポレオンだった。ワーテルローの敗戦にも全然懲りていない。彼は自分中心の大義名分を立て、有無を言わさず突き進んで来た。それがナポレオンだった。
言葉を切ると、オルタンスの方に顔を向けた。これまでと変わらぬ威勢のいい話し振りとは裏腹に、彼の目にこれまで見たことのない不安の影が過るのを、彼女は見落とさなかった。
「ところで…」
ナポレオンは哀願するような目で、オルタンスを見た。
「退位を宣言したら、ここを出なければならない。そのあと船に乗るまでの間だが…」
「マルメゾンでお過ごしください。兄のウジェーヌが相続しましたが、私が管理しています。ジョセフィーヌ皇后が生きていた頃のままにしてあります。皇后はマルメゾンに珍しい薔薇を植えて育てました。今はちょうど花が咲き揃う時期、皆さんに集まっていただきましょう。アメリカにお発ちになる前にお会いになりたい方が大勢いらっしゃいましょう。皆さんに来ていただこうではありませんか」
「頼む」
ナポレオンはそれだけ言った。オルタンスが拒否するのではないか。彼はずっとそのことを危惧していた。ジョゼフィーヌはナポレオンがエルベ島にいた間に、同盟国とわたりをつけて、とりわけロシア皇帝の庇護をたのみ、息子と娘の安泰を確保していた。
ナポレオンをみすてていた。ナポレオンがエルベ島から帰還することがあるとは夢にも思っていなかったのだ。ロシア皇帝を迎えて、風邪を引いたのがもとで、あっけなく死んでしまった。オルタンスも母同様に、同盟国軍に組して、ナポレオンを見捨ててしまっているのではないか。それが、彼女の将来にとって、一番安全な道なのだから。
しかし、オルタンスは自分からマルメゾンに招いてくれた。いささかのためらいもなく。
彼女は、ジョゼフィーヌと彼女の前夫ボアルネ子爵の間に生まれた娘であり、ナポレオンの弟のルイの妻であった。ルイとは離婚して、現在三十二歳。母親ゆずりの社交術と決断力のある人物に成長していた。彼女はすべてをうまく取り計らってくれるだろう。
ナポレオンは彼女の肩に手を置いた。
オルタンスの目から突然大粒の涙があふれ出た。流れる涙でうるんだ目で、彼女はナポレオンを見つめた。思いがけないことだった。ナポレオンは狼狽した。
しかし、それは一瞬のことだった。オルタンスはハンカチで涙を拭った。
「わたくしに全てをおまかせいただきます」
きっぱりと断言して、彼女はナポレオンをまっすぐに見据えた。情愛をふりきった、実務的な顔に変わっていた。オルタンスの関心はすでにこれからなすべき采配に向いていた。ナポレオンをマルメゾンに招待するのは三日間考え抜いて出した結論である。そのことが自分の将来にどんな影響をもたらすかは分からない。分からないけれども、すでに賽を投げてしまった。
彼女は部屋を出ようとした。
「子供たちは大丈夫か?」
ナポレオンはオルタンスに聞いた。
「大丈夫です。しかるべきところに預けました」
「それは…」
「モンマルトルの野菜を商う商人の娘にみてもらうことにしました。当分は何が起こるか分かりませんから」
「さすが、周到だ」
「では、おいとまします」
オルタンスは部屋を出た。
彼の最初の妻だったジョゼフィーヌはナポレオンの子供を産めなかった。彼女は前夫との間の娘オルタンスをナポレオンの弟ルイと結婚させた。二人の間には三人の息子が生まれた。ナポレオン・シャルル、ナポレオン・ルイそれにルイ・ナポレオンである。
オーストリアの王女、マリー・ルイーズと再婚して、実子のローマ王フランソワが生まれるまでは、彼らの誰かを養子にしようとナポレオンは考えていたのだ。
1806年6月ナポレオンはルイをオランダ王に任命した。オルタンスはオランダ王妃となり、オルタンス妃と呼ばれるようになった。その年11月、ナポレオンはイギリス製品の締め出しを図った大陸封鎖令を公布する。
オランダは海外貿易が主な産業の商業国であり、イギリスに一番近い海岸を持っていたから、オランダ人は大陸封鎖令に反対だった。それを抑えてナポレオンの意志を徹底させることを要求したのだが、ルイにはその才覚がなかった。
オランダ国民の人気を取ることに汲汲としてフランスの国益をまもることができなかった。兄とオランダ人との間で板ばさみになった彼は1810年王位を自ら捨て、最初から愛のなかったオルタンスとの結婚生活にもピリオドを打った。二人はその年に離婚した。
ナポレオンが後継者にと考えていた長男のシャルルは八年前に五歳で死亡したが、十一歳の次男と七歳の三男は離婚後彼女が育てている。マリー・ルイーズとともに、フランソワはオーストリアに帰ってしまっている。ボナパルト家の運命はオルタンスの二人の息子の肩にかかるのかもしれない。
ナポレオンはひとまず安堵した。
今いるエリゼ宮を出てから身を寄せる場所をともかく確保したからだ。とりあえずは、それだけで十分としなければならない。オルタンスが快くマルメゾンに迎える意志を示してくれたことがうれしかった。
皇帝を退位すれば、フランスに住む場所はない。あるとすれば牢獄だろう。ルイ十六世と同じように処刑されることを避けるためには、早急にフランスの地を去ることだ。
政局は刻々に変化する。戦争と同じことだ。ワーテルローにおいてもナポレオン軍は勝利を収めていた。あの十八日の午後三時にラ・エイ・サントを占拠した時には勝利を確信した。夕刻七時、もう少しで日没という時になって麦畑にひそんでいた二千のイギリス兵が立ち上がって一斉射撃を始めた。不意をつかれたフランス兵は退却を余儀なくされた。そのすきにプロイセン軍が、イギリス軍に合流し、ナポレオン軍は敗れた。それによって勝敗は決してしまったのだった。
イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンの同盟諸国はナポレオンの身柄引き渡しを要求してくるだろう。彼らが求めるのはナポレオンの退位だけだと知った議会はナポレオンを引き渡し、戦争犯罪者として処刑するに任せるにちがいない。
一刻も早くヨーロッパを出る。それが最善の策だ。アメリカ大陸があるではないか。まだ開拓されていない土地が残っている新しい大陸だ。フランス領のルイジアナはアメリカに売ったけれど、フランス人移民はきっと彼を歓迎してくれるだろう。いや歓迎させて見せる。
彼らと手を携えて、アメリカ大陸にフランスの覇権を拡大する。そうすれば、フランス国民はまたナポレオンを愛するだろう。フランスを大きくしてくれた英雄として。旧世界を去って、新世界の覇者になるのだ。
数日前にワーテルローで敗れた時、自決をしようとしたことなど、彼はすっかり忘れていた。妄想が限りなく広がりつつあった。彼はすでに大西洋の海原とその向こうに横たわる広大な大地に思いを寄せていた。それはまた彼の支配下になるはずだった。彼は頭の中で自分と共に大陸に渡る人物の選択を始めていた。
それがナポレオンであった。彼は過去にとらわれない。過去の失敗にくよくよしない。自分に不可能なことはない。そう考えるのは、過去を忘れて、未来を見るからだ。しかし、彼が誇大妄想に陥らなかったのは、彼を支えてくれる人民がいたからだ。ナポレオンは貴族の敵であったが、人民の希望の星だった。
ナポレオンは窓を開けた。木々の緑が明るい初夏の日を受けてきらきらと光っている。
副官のシャトーブリヤンを呼んだ。
「庭の緑がきれいだ」
周囲を見渡す心の余裕ができたのだ。
「風もさわやかです」
シャトーブリヤンはナポレオンの変化に安堵した。二人は庭園に出た。
「皇帝万歳!」
塀の外から声が上がった。エリゼ宮に集まった群衆がナポレオンの姿を見かけて叫んだのだ。何人かは塀を乗り越えて入ってきた。衛兵達は彼らを制止しようとしなかった。彼らは職務を遂行しているだけだった。政局はどう変化するか分からないから、定められた位置に立っている以上のことはしないのだった。
入って来た人々はナポレオンの前にひざまずいた。
「われわれを見捨てないでください。われわれのために、フランスのためにもう一度戦ってください。われわれは閣下のもとで戦います。われわれの権利を守ってください」
彼らの目には涙があふれていた。
「ありがとう」
ナポレオンは彼らを立たせて、一人一人と握手した。彼らの手はナポレオンの手よりずっと硬く頑丈だった。最前線で銃を持って戦った兵士の手だった。
ナポレオンは現実に引き戻された。ブルボン王朝を倒し、共和政治を作り上げた人民とともに共和政治のために戦ってきたのだ。彼を支えてくれた彼らを捨てて、アメリカに渡っていいものか。エルベ島を出てパリに帰って来たとき、ナポレオンと戦う意思さえなくベルギーに亡命したルイ十八世におめおめと政権を渡していいか。
あの時、つい百日ほど前のあの日、グルノーブルの近くのラ・ミュルで、ルイ十八世が派遣した軍と出会った時のことが鮮明に彼の脳裏に浮かんだ。
「第五師団の諸君、私は君たちの皇帝だ。分かるかね。諸君の中に諸君の皇帝を殺したい者がいるのなら。さあ私はここにいる」
ナポレオンは兵士たちに向かって叫んだ。
重苦しい沈黙の後、一人の兵士が声を上げた。
「みんな、われわれの皇帝だ。戦場で、野戦キャンプで、敵の砲火をものともせずに、われわれの先頭に立って戦ってくれた皇帝だよ」
その声に押されて
「皇帝万歳!」
の声が一斉に上がった。
ルイ十八世のためにナポレオンを敵にして戦おうとした兵士は一人もいなかった。国王軍は一時間後にはナポレオン軍に変わってパリへ向かったのだった。
同盟国はフランス軍を壊滅させようとしてルイ十八世を擁立しようとしているのだ。
あの時ルイ十八世のために戦った兵士がいなかったからだ。フランス軍の兵士たちは国王と共に戦おうとはしないのだ。フランスの真の平和と栄光のために、フランスの軍事力を維持し、ヨーロッパにおけるフランスの力を失墜させないために、もう一度これらの兵士と一緒にナポレオンは戦うべきなのではないか。
そのためには今なすべきことは?
ナポレオンは兵士の手を両手でしっかりと握った。
「ありがとう。諸君。期待に応えるよう努力する」
ナポレオンはそう言うと肩をそびやかして宮殿の中に入っていった。
「皇帝万歳」
「皇帝万歳」
兵士たちの声を受ける彼の背中に木漏れ日がさびしく揺れていた。
マルメゾン 1
