マルメゾン 2

ナポレオンの兄のジョゼフと弟のリュシアンはエリゼ宮にいた。長男のジョゼフはナポレオンの二歳年長、三男のリュシアンは六歳年下である。彼らは閣僚とともに議会の動きを見ていた。リュシアンは議会を解散して独裁政を再開すべきだとナポレオンに進言していた。ブリュミエール十八日のクーデターを成功させるために働いた時のことを思い出していたのだ。
 しかし、ナポレオンはだんだん弱気になっていた。ワーテルローの敗北がこたえているようだった。ジョゼフはアメリカ行きを勧めている。オルタンスは彼らにナポレオンがアメリカに発つまでマルメゾンで過ごしてもらうことを伝えた。
「皇帝は退位を決意されてアメリカに渡る決心をされたようです。アメリカはエルベ島とは違います。大西洋の向こうです。私たちにとっては、遠い遠い土地です。また何時お目にかかることができるかどうか。長いお別れになりますから、その前に皇帝と縁の深かった方々、とくに血の繋がりがある方をマルメゾンにお迎えして、皇帝に会っていただきたいと思います」
「それがいい。ナポレオンの将来は明るくない。口に出しては言わないが、彼自身そのことは十分承知している。彼の性格として弱音は吐かない。だがナポレオンは年を取った。それに健康を害している。ワーテルローで敗れたのは彼に若さと精力がなかったからだ。夜明けは四時だった。早朝すぐに戦闘を開始していれば、プロイセン軍の到着前に勝利できたはずだった。十年前の彼だったら、そうしただろう。だが今の彼はそれができなくなった。彼の身体が休息を要求するようになったからだ。彼が起きたのは午前6時。戦闘を開始したのは12時だったそうだ」
 オルタンスはジョゼフの言葉を遮った。
「そういうお話はなさらないでください。終わったことをとやかく言っても仕方ないではありませんか。未来に希望を持ちましょう。ボナパルト家が永遠に滅びることのないようにしなければなりません。ナポレオンはフランスの栄光でした。フランス国民はナポレオンを愛しています。ともかくマルメゾンで尊厳を失わずに過ごしていただくために私は最善を尽くします」
「おまかせする。よろしく」
 リュシアンはそれだけ言った。
 ナポレオンと同じように、彼はオルタンスの技量を知っていた。オルタンスがナポレオンのためにジョゼフィーヌの館だったマルメゾンを提供してくれたことに安堵していた。それはオルタンスが今後ボナパルト家のために働くことを決意してくれたことを意味することだったから。
 ジョゼフィーヌと離婚して、ナポレオンはオーストリア皇帝の娘、マリー・ルイーズと結婚した。十六歳だった彼女はすぐに懐妊し、ナポレオン二世フランソワ・シャルル・ジョゼフが誕生した。マリー・ルイーズはマリア・テレジアの孫で、マリー・アントワネットの姪である。ヨーロッパ最古の名門ハプスブルグ王家の王女との間に男児が生まれたことでナポレオンは狂喜した。 
 この子は血筋からして正真正銘の帝王だ。コルシカ出身の貧乏将校が創立したナポレオン王朝が名実ともに世界に認知される。
 しかし、ナポレオンの栄光はそこまでだった。
 ナポレオンはフランス革命の子であった。
 旧体制を破壊したフランスに対するヨーロッパの旧体制諸国の干渉を退け、フランスの革命思想を掲げて、ヨーロッパを旧体制から脱却させるためにフランス軍は戦ったのだ。旧体制を破壊しようとするエネルギーの渦中にいてこそ、ナポレオンは勝利を収めえたのである。
 ジョゼフィーヌとの離婚は彼が革命の理想を捨てたことを意味した。旧体制に組したことは、すでに彼自身の内面的敗北だった。フランス革命の思想をヨーロッパに広げる、抑圧された人民を旧体制から解放するという当初の大義を捨てたナポレオンは、ヨーロッパの人々にとって敬愛すべき英雄ではなくなった。
 ロシア遠征の失敗から、ヨーロッパ各国は彼の戦力の限界を見定め、攻勢に転じた。ナポレオンはライプチッヒの会戦で敗れ、ロシア皇帝、プロイセン国王を先頭に同盟国軍はパリを占領した。
 ナポレオンは退位し、フランソワをナポレオン二世として擁立する計画は挫折した。ナポレオン自身はエルベ島に流され、マリー・ルイーズとフランソワはウイーンに帰されてしまった。
 オーストリア皇帝フランツ二世はフランソワをフランスに帰すことを拒否している。マリー・ルイーズはすでに侍従武官のナイベルグ伯爵に篭絡されて、彼と同棲していて、ナポレオンのことはもはや眼中にない。ナポレオンの妻もナポレオン二世もオーストリアに人質に取られているのだ。おそらくフランスに戻ることはないであろう。
 今後ナポレオンの後継者となりうるのは、オルタンスが育てているルイの息子たちだ。ナポレオンがいなくなった後、ボナパルト崇拝者を束ねていくのは彼女しかいない。母親のジョゼフィーヌはナポレオンと離婚し、彼女もルイと離婚しているが、彼女の息子たちはボナパルト家の血を受け継いでいる。ナポレオンの栄光を再現できるのはナポレオン・ルイとルイ・ナポレオンの二人、ナポレオンの名を受け継いでいる彼らだけだ。ボナパルト家の命運は彼女の手の中にある。
 フランス国民の多くはナポレオンを愛している。彼らはヨーロッパをフランスの支配下においたナポレオンを誇りに思っている。今回ナポレオンが退位したにしても彼らはナポレオンの後継者がフランスを治めることを必ず望むはずだ。
「私は今夜マルメゾンに行きます。皇帝がおいでになる前に館を整えておかねばなりませんから」
「くれぐれも気をつけて。何が起こるか予想できない情勢だから」
「お互いに」
 オルタンスは彼らと別れた。