「マダム・メールにご挨拶しましょう」
オルタンスはアレクサンドルの手を取って言った。ナポレオンの母レティツィアはマダム・メール(母后)と呼ばれている。
「アレクサンドルは本当にお利口ね」
「白鳥を見たいんですけど」
「いいですよ。マダム・メールとご一緒にお食事した後で、池に行って見ましょう」
「今年は何羽ですか」
「さあ、まだ見ていないけど」
「この前来た時は黒鳥一羽と白鳥が一羽いました」
「そうだったの。よく覚えているわね」
ジョゼフィーヌがまだ生きていた頃、マリーは彼を連れてこの館を訪れた。その時のことである。マリーが繰り返し話して聞かせるので、アレクサンドルは覚えているのだろう。
オルタンスは昨日来たレオンのことを思い出した。生まれた直後から母とともに暮らすことができなかったかわいそうな子である。どちらもナポレオンの子であるが、二人の間にはおのずから人格の違いがあるようだ。
「アレクサンドルは幸せね。ママンと一緒で」
そう言ったあと、オルタンスは黙ってしまった。
彼女は三年前、ナポレオンの副官だったファラオーとの間に男児を出産していた。ナポレオンの弟のルイとの結婚は母ジョゼフィーヌの意向で取り決められたことで、ジョゼフィーヌがナポレオンの子供を生めなかったために仕組まれたものだった。ルイとの間に生まれた三人の息子は、ローマ王が生まれる前は、ナポレオンの後継者と目されていたのだ。
ファラオーはタレイランの庶子であった。ファラオーはオルタンスが愛した唯一の男性であり、ルイと離婚したあと、燃えるような愛のなかで、身ごもったのだったが、生まれ落ちるとすぐに、里子に出した。その子のことは、父親のファラオーと、オルタンスの兄のウジェニーのほかはだれにも知られていないはずだ。里親はサント・ドミンゴの植民者、オーギュスト・モルニーだということしか彼女は知らされていない。アレクサンドルより一才下だから、そろそろ賢くなっているはずだが、どういうふうに育つだろうか。会える見込みは全然ない。
「どうしたの」
アレキサンドルが心配そうに見上げている。
「べつに。ではドアをノックして」
アレキサンドルは小さい手でドアを叩いた。
「お入りなさい」
レティツィアは窓辺の椅子に腰を下ろしていた。
「よく来ましたね」
「こんにちは」
「エルベ島で会った時よりずっと背が伸びたようではないか」
「とてもお利口さんです」
オルタンスが言葉を添えた。
「よく立派に育ててくださった。礼を言います。この子はナポレオンの幼い時にそっくりだ。顔つきも体つきも、声までも良く似ています。ナポレオンはどうなるか分からないけれど、これからもしっかり育ててください。大きくなったら、きっとナポレオンのようになるでしょうよ。ボナパルト家の栄光を支えてくれる人物に育つと私は思います。お願いします。つらいこともあるだろうけれど、くじけないでくださいね。私にできることがあれば、言ってください。力になりますから」
レティツィアはマリーに言った。マリーはまだ泣いている。
「皇帝万歳!」
門の外で叫ぶ声が聞こえてきた。
「あの声は?」
レティツィアが聞いた。
「フランス軍の兵士の声です。言ってみてきます」
オルタンスは部屋を出た。
「皇帝万歳!」
「皇帝万歳!」
声はだんだん近づいて来る。
「どうしたのですか」
廊下に出るとすでに新しい動きが始まっていた。オルタンスはジョゼフを探した。彼は車寄せのところに立っていた。
「サン・ジェルマンの方から歩兵隊がやって来た。コンピエーニュでプロイセン軍に破れた兵士たちが皇帝の指揮を求めて来たのだ。フランス軍はナポレオンなしでは烏合の衆だ。このままではフランス軍はフランスをまもることはできない。そう彼らは言っている」
「それで皇帝は?」
「いまベッカー将軍を呼んで、臨時政府にメッセージを送らせたところだ。
皇帝としての権利は放棄したけれど、国を防衛するという、市民としてもっとも崇高な権利は放棄していない。敵が首都に迫っている以上、フランスを防衛するために、私は戦わねばならぬ。私はフランス最高の軍人である。だから将軍として、敵を撃退するために戦う。ナポレオンはそう主張した。彼は軍服を着、剣をさげている」
「臨時政府はそれを認めるでしょうか」
「どちらとも判断できない。カルノはナポレオンに指揮を取らせて徹底抗戦させるべきだと主張していた。彼はイタリア軍司令官にナポレオンを推した人物だ。ナポレオンの能力を一番認めている。しかし、フーシェはすでに同盟国と通じていて、ナポレオンの身柄と引き換えに講和を結ぶつもりだろう。彼はナポレオンを捨てて同盟国に媚を売っている。イギリスのウエリントン公爵とプロイセンのブリュッハー元帥に打診しているらしい。ルイ十八世が政権を取ればまた閣僚になるべく策を弄している様子だ。ナポレオンはまだフーシェを信頼しているが、それは彼にとって危険だと思う」
「アメリカに亡命を勧めたのはたしか…」
「フーシェだ。ナポレオンはしぶしぶその気になっているが、フランスの栄光を自分の手で取り戻したいという意欲も捨てきれないでいる。フーシェは海千山千のつわものだ。彼の言うことを聞いているとどういうことになるか分かったものじゃない。そのことはナポレオンも承知してはいるだろうが」
ナポレオンが退位すると同時にできた臨時政府の議長はジョゼフ・フーシェである。彼は自らの保身のためにはどんなことでもする人間である。修道院の教師でありながら、革命が起こると教会の破壊をすすめ、共和主義者となり、ロベスピエールと対立すると裏で手をまわして彼をギロチンに送った。ナポレオンが力を持てばボナパルト派となり、公爵になり、資産を蓄え、閣僚もつとめてきたが、ナポレオンが退位したからには王党派に鞍替えするだろう。
ジョゼフとオルタンスは門の方に歩いて行った。歩兵たちはまだ門の外に並んでいた。
「中に入ってもらうわけにはいかないのですか」
「臨時政府の許可がおりるまではだめだ」
二人の姿を認めると
「皇帝万歳!」
彼らはまた叫んだ。
「皇帝の人気はまだ衰えていないのですね」
オルタンスは彼らに手を振りながら言った。
「そうだ。ナポレオンの人気はおそらく後世まで消え去ることはないだろう。だから、ナポレオンは同盟国にとって危険人物なのだ。同盟国はナポレオンさえいなければフランス軍は恐れるに足りないと考えている。」
マルメゾン 7
