マルメゾンでの四日目の夜が更けた。結局フーシェはナポレオンの要請を拒否した。歩兵たちは解散させられた。ナポレオンはフランス軍を指揮する機会を持てなかった。軍服を脱いだ彼は図書室にこもっている。フーシェから大西洋岸のロシュフォールにフリゲート艦二隻を用意したという報告が夜になってマルメゾンに届いた。もはやナポレオンはアメリカに亡命するしかない。
オルタンスは静かにドアをノックした。
「お入り」
ナポレオンは目を上げた。
「ジョゼフとリュシアンは出発されました。一足先に行ってロシュフォールで状況を見届けておかれるそうです。マダム・メールはおやすみになりました」
「ありがとう。よくやってくれた。礼を言う」
「あのう」
「なんだね」
「このダイヤモンドの首飾りをお持ちください。お役に立つことがあるかもしれませんから」
「きみはそんな心配をしてくれなくてもいいんだよ」
「そうは言っても。私にできることはこれぐらいしかありませんから」
「この四日間ここにおいてくれただけで十分すぎるぐらいだ」
「でもこれから先どんなことが起こるか分かりませんし」
「それはきみだって同じじゃないか」
「でもお持ちいただきたいのです。そうでないと私の気持ちがすみません」
「そうかね。そうまでオルタンスが言うのだったら、もらっておくことにするか」
「ぜひ」
ナポレオンは首飾りを受け取った。
「その代わりこれを持っていてくれ」
自分の指にはめていたジョゼフィーヌの結婚指輪を外すと、それをオルタンスの指にはめた。そしてさらに2000フラン紙幣を渡した。
「指輪だけいただきます。お金はいただけません」
オルタンスは紙幣を返そうとした。
「きみもこのあとどうなるかわからないのだよ。この金は持っておいてほしい。きみはこれからナポレオン・ルイとルイ・ナポレオンを養育しなければならないのだから」
ナポレオンは紙幣を受け取らなかった。
「いよいよ明日は出発だ」
自分に言い聞かすようにつぶやいた。
「大勢の方が来て下さいました。みんな皇帝を心から愛し尊敬しています。それにしてもレオンとアレクサンドルが来てくれてよかったですね。二人ともはローマ王にそっくり。ハンサムで賢くて頼もしいこと。将来が楽しみですわ」
「そうだ。彼らに会って、私は新たな責任と勇気を得たよ。彼らがナポレオン・ボナパルトの息子として、誇りを持って、堂々と生きて行けるように、私はこれからまた頑張らねばならない。
ワーテルローで自決を思い止まってよかった。つくづくそう思う。私はまだ四十六歳だ。新しく人生を開くことができるはずだ」
「勿論ですわ」
オルタンスは言った。
「とりあえずアメリカに渡るしかないようだ。アメリカにはまだ広大な土地がある。土地を買って農園を作るのだ。戦争はもう止める。戦争で奪った土地は戦争で奪い返される。納得ずくで平和的に土地を取得する。そして農業をやる。農夫になるのだ。棉を作る。小麦を栽培する。牛や羊を飼う。野菜も勿論生産する。大規模農業を始めようと考えている。そして生産物をヨーロッパに輸出する」
ナポレオンはフランスで土地を細分化したのは、近代化のためには間違いだったのではないかと考え始めていた。彼は没収した貴族や教会の土地を農民に分け与えた。農民は自営農となった。彼らはナポレオンに感謝してよく働いた。ナポレオンの勝利を導いたのは農村出身の兵士たちだった。
しかし、土地を所有したことで農民たちは保守化し、自分の利益しか考えなくなった。力を合わせて仕事をする気風が生まれなくなった。企業化ができず、大量生産ができない。イギリスに追い付けないのだ。大陸封鎖令でイギリス製品を締め出そうとしたナポレオンの政策が失敗したのは、フランスがイギリスのように優れた工業製品を生産できなかったからだ。中世以来の職人芸にこだわり、家内工業から脱出できないでいる。
「アメリカに渡って、新天地で、一から新しい事業を始めよう。十年頑張ればレオンは成人に達する。その後五年すれば、アレクサンドルとオーストリアに帰っているフランソワが大人になる。彼らとともに新しい世界を構築するぞ」
ナポレオンは夢を語り始めた。かってジョゼフィーヌに語ったように。彼の目はきらきらと輝いている。オルタンスはうっとりとしてそれを眺めた。
「そうですとも。皇帝はきっとまた成功なさいます。それにしても、ローマ王にお会いになれなかったのが、お心残りでした」
オルタンスは言った。彼女はまだナポレオンを皇帝と呼び、マリー・ルイーズが産んだナポレオンの嫡子フランソワをローマ王と呼んでいる。彼が生まれた時、オルタンスは立ち会ったから、あの時のナポレオンの喜びようが目に浮かぶ。
百一発の礼砲が打ち上げられると、人々は抱き合って喜び、大歓声をあげて道路を行進した。テュイユリ宮の中までその声が聞こえてきた。ナポレオンは感激のあまり涙を流していた。あれが彼にとって人生最高の時だったのだ。
ローマ王は美しい子供だった。広い額、明るい青い瞳、ブロンドの髪、ナポレオンは日に何度も彼の部屋に行って、彼の成長をまだかまだかと見守った。ローマ王はナポレオンの太陽だった。それだけにさぞ会いたかっただろうと、彼女は心が痛むのである。
「今はどうにも仕方ない。それにしても」
ナポレオンは一呼吸おいて言った。
「ジョゼフィーヌはマルメゾンを見事な館に完成したものだ。これだけのものを作るには金がかかったのも当然だと私は改めて思ったよ。こういうことができるのはジョゼフィーヌだけだった。
なによりも彼女が生きていないのが残念だ。彼女と一緒にアメリカに行きたかった。彼女は植物のことをよく知っていたから、農園をつくるのによいアイディアを出して私を助けてくれただろう。
いろいろのことがあったが、私はやはり彼女を愛していた。今も愛しているよ。フランスを去る前に彼女が生涯をかけて作り上げたマルメゾンで過ごせて幸せだった。四日間だったけれど、本当に楽しかった。薔薇の花は見事だった。生涯忘れずに思い起こすだろう。ジョゼフィーヌは非凡な女性だった。私は彼女に助けられたと思う。
彼女と離婚したのが間違いだったのだ。離婚を勧めたのはフーシェだった。彼の言葉に乗ってしまったことが悔やまれる」
オルタンスの目に涙が溢れた。ナポレオンが母ジョゼィーヌを理解してくれたことがうれしかった。ジョゼフィーヌが生前に聞いたらどんなに喜んだことか。
「ローマ王を帝位につけることを条件に私は退位に承諾した。それが実現するかどうか。メッテルニヒはローマ王をフランスに戻さぬつもりではなかろうか。だとすれば、私は大きな間違いを犯したわけだ。
ジョゼフィーヌほど私を助けてくれた者はいなかった。このマルメゾンも彼女が買っておいてくれたものだ。今の今までどれほど私の役にたったことか。彼女は本当に有能だったよ。これから大変になるかも知れないが、このマルメゾンはずっと今のままに保存してほしい。ジョゼフィーヌが育てた薔薇の花も」
「できるかぎり」
オルタンスは約束した。それ以上のことは言えない。彼女自身このあとフランスに永住できるかどうか。それもひとえにナポレオンの処遇がどうなるかにかかっているからだ。オルタンスの思惑には無頓着に
「きっとだよ」
ナポレオンは子供のようにそう言った。
「そうだ。アメリカにもこのマルメゾンと同じ館を作ることにしよう。そしてジョゼフィーヌが育てた薔薇を植えよう。そうすればフランスの園芸文化をアメリカに伝えることになる」
ナポレオンの夢はつぎつぎにふくらんでいく。夢をふくらませることが、絶望のどん底にある彼に残されている唯一の楽しみであり、心の痛手をいやす手立てなのだろう。
皇帝を退位させられたことが彼にとっていかに屈辱だったか。
さらに皇帝としてではなく将軍としてフランス軍を指揮するという希望を否定されたことが、どんなに彼を絶望させたか。
オルタンスはコランクールの話を思い出していた。エルベ島に行く前自殺を図った前夜もナポレオンはこのようにエルベ島での生活について夜遅くまで話していたという。オルタンスは彼の話をずっと聞いていたいと思った。それでナポレオンの気持ちを癒すことができるのならば。それが十二歳から育ててくれたナポレオンへのせめてもの恩返しになるのであれば。
彼女の実父アレキサンドル・ド・ボアルネは軍人だった。1791年6月にルイ十六世の一家が国外逃亡を図り、国境近くの村ヴァレンヌで見つかってパリに引き戻された事件が起こった時国民議会の議長だった。国王不在の一週間、国政の最高責任者を務めた。そのことで彼は一躍有名になったが、九月には立憲国民議会は解散して、立法議会が成立したので、議員を辞め、軍務に戻り、オーストリアとの戦いが始まると、ライン軍最高司令官に就任した。しかし、実戦の経験がなかったこともあって、戦果を挙げることができず退任し、貴族だったために革命を潰すために故意に敗れたのだという嫌疑を掛けられ、1793年7月に処刑された。オルタンスが十歳の時である。
オルタンスが生まれる前からアレキサンドルはほとんど家にいなかった。父には他に女性がいたのだ。父と母は別居していて、兄のウジェーヌとオルタンスは母親のジョゼフィーヌに育てられた。アレキサンドルはオルタンスの出生を喜ぶどころか、自分の子ではないのではないかと疑いを持ったぐらいだから、彼女を娘として愛してはくれなかった。生まれてからずっと父の愛を知らずにいたのだ。
十二歳の時ジョゼフィーヌの再婚でナポレオンが父親になった。彼はイタリア戦役以後常に偉大で、気難しく、近寄りがたい存在だった。母のジョゼフィーヌと兄のウジェーヌと彼女をしっかりと保護してくれた。実の父以上に。彼女より十四歳しか年上でなかったから、年齢的には父というよりは兄みたいだったけれど。
ナポレオンとオルタンスがこのように親密に過ごしたのは初めてだった。ナポレオンは常に忙しく四日間もずっといることはなかったし、ジョゼフィーヌの生存中はオルタンスにとってナポレオンは母の夫であり、ナポレオンにとってオルタンスは妻の娘だったからだ。ナポレオンとオルタンスの間にはつねにジョゼフィーヌがいた。二人きりになることはなかった。
アメリカでの夢を語るナポレオンは少年のように無邪気だった。ナポレオンは本当はさびしがりやなのかも知れない。オルタンスはそう思った。ジョゼフィーヌとふたりきりの時はいつもこのように無邪気にふるまっていたのだろう。
遠くでふくろうの鳴き声がした。
「夜が更けました。もうおやすみにならなければ」
オルタンスは立ち上がった。
「そうだね。オルタンスとゆっくり話せて楽しかった。ほんとうにありがとう。改めて礼を言うよ」
ナポレオンも立ち上がって、オルタンスの肩を抱いた。
「きっとまた会おうね」
永遠の別れになるのではないかと思いながらオルタンスは今度も
「ご無事で…」
とだけ言った。
彼女が言えるのはそれだけだった。
いくら考えてもそれ以外の言葉は浮かばなかった。
ナポレオンが無事にアメリカに到着できるかどうかオルタンスには予測できない。ただ無事を祈ることしかないのだ。
「オルタンスも無事で。子供たちをしっかり育てるのだよ。子供は宝だからね」
ナポレオンはそう言った。
今彼に言えることはやはりそれだけだった。彼女の運命もどうなるか予測できない。
ふくろうがまた鳴いた。淋しい鳴き声だった。外は暗い闇である。
了
©安部薫
マルメゾン 8
