パリ郊外、セーヌ左岸の美しい田園地帯にあるマルメゾンの館には、やわらかに夏の日が差していた。池の中の島には、シャクナゲの花が咲き、白鳥が静かに泳いでいる。赤、ピンク、白、黄色とさまざまの薔薇の花が、日を浴びて、うれしそうに開いている。あるものは数多くの花びらの重みでうなだれるように、あるものは五枚の小さな花びらを誇らしげに一杯に開かせて。ほのかな甘い香りが微風に乗って流れてくる。
マルメゾンはフランス語では悪い家という意味である。名前の由来は明らかではないが1309年には館が建設され、1766年までは同じ家系の人々が居住していた。その後ソフィー・ル・クトルという女性がここに住んで、ルイ十六世の時代にサロンを開いていたという。
1799年4月21日、ナポレオンのエジプト遠征中にジョゼフィーヌはこの館を購入した。その三年前にジョゼフィーヌとナポレオンは結婚した。結婚二日後ナポレオンはイタリア方面司令官として赴任、オーストリアの支配からイタリアを解放し、フランスの栄光となっただけでなく、ヨーロッパ中にその存在を知られたのであるが、その後最大の敵となったイギリスの経済拠点であるインドを本国から切り離すことを考え、エジプトに遠征したのだった。彼はエジプトにおけるフランスの権力を拡大し、アレキサンドロス大王のようにペルシャからインドにまで達する大帝国を作り上げようと夢見ていた。
ジョゼフィーヌは借金してこの館を買い、ナポレオンがエジプトから帰って支払ったのだった。ジョゼフィーヌは美しいものをこよなく愛した。それはそれでよかったが、経済観念はまるでなかったから、宝石やドレスを惜しみなく買い、ナポレオンはそのつけを払わされ続けた。このマルメゾンの館も子供が人形を買うように気楽に買って、当時彼女の愛人だったイポリット・シャルルとの愛の巣にしていた。
西インド諸島のマルティニック島の農園に生まれた彼女は植物が好きだった。庭園設計の才能もあった。マルメゾンは彼女が購入した時は館と庭園の部分と葡萄畑と野菜畑の区画が半々ぐらいだった。普通の田舎の館にすぎなかった。ジョゼフィーヌは全てを庭園にした。近隣の土地を買って、二倍近い広さに拡張し、ナポレオンが戦争から持ち帰った種子を育てて、植物園のように珍しい樹木を成長させた。
エジプトから帰還して一ヶ月後の、1799年11月9日、ナポレオンはクーデターに成功し、総裁政府を倒して第一執政に就任して、テュイユリ宮に入り、驚異的な活動を開始した。テュイユリ宮に近いマルメゾンの館を週末の別荘として利用し、ここにこもって法律や宣言の草稿を書いたのである。
ジョゼフィーヌは彼のために老朽化していた館を改装し、内部を装飾し、会議室、図書室、イタリア戦役から持ち帰った名画を展示するギャラリーなどを増築した。庭園に彫刻を飾り、池に鄙びた橋をかけ、東屋や温室も建造した。森あり、池あり、温室ありの贅を尽くした、快適な庭園が出来上がった。
ナポレオンから離婚されてからは、ジョゼフィーヌはこのマルメゾンで、薔薇の花を育てることに熱中した。珍しい品種の薔薇を収集して栽培させた。ナポレオンの子を産めなかったという理由で十三年間の結婚生活を一方的に破棄された後、彼女の悲しみを癒すまではいかなくとも、和らげてくれたのはこれらの薔薇の花であった。夏の初めから秋までつぎつぎに開く花の一つ一つの美しさに、彼女は人生の最後の慰めを得たのである。
だからと言って、彼女はただ隠遁していたわけではない。ナポレオンがエルベ島に流された後、彼女はこの館に同盟国の君主たちを招待してパーティを開いた。
特にロシア皇帝アレキサンドルはパリ占領中、しばしばマルメゾンを訪れて、心身の緊張を和らげた。ナポレオンが昔テュイユリ宮を出てマルメゾンでストレスを解消したように。マルメゾンの美しい花々は寒いロシアでは見られないものだった。当時37歳だった皇帝は花の都パリの優美をマルメゾンで堪能した。
ジョゼフィーヌはナポレオンの後ろ楯を失った息子ウジェーヌと娘のオルタンスにルイ十八世の庇護を得ようと懸命だった。事実ロシア皇帝の尽力によってオルタンスはサン・ルー女公の地位を獲得した。
ジョゼフィーヌは死亡した。薔薇の花が最も美しい5月27日だった。ロシア皇帝を主賓とする盛大なパーティを開いた三日後だった。一年前のことである。ナポレオンは彼女の死をエルベ島で新聞報道で知った。ジョゼフィーヌはナポレオンが再びマルメゾンを訪れることがあろうとは思ってもいなかっただろう。
だが、1815年6月25日、ナポレオンはマルメゾンに帰って来た。エルベ島を脱出し、皇帝に復帰したものの、ワーテルローの戦いに敗れ、在位94日間で退位させられて三日たっていた。彼自身はエリゼ宮を出るが出るまで、いや出てからマルメゾンに着くまでの間も、退位を覆す何かが起こることを心の中で期待していた。
エルベ島を脱出してから、パリに帰還するまで、彼を支えてくれた民衆が、また彼を擁立する運動を起こしてくれると信じていたからだ。しかし、何も起こらなかった。彼の乗った馬車は厳重に警護され、窓は閉ざされたままだった。
ナポレオンは期待が裏切られた失望に気分を滅入らせて馬車を降りた。
やさしい風が彼の頬に当たった。
「風は変わらない」
彼はそう呟いた。
十数年間ヨーロッパを野心のもとに撹乱し続けた46歳の男は、野望を打ち砕かれた今、詩人になった。しかし、それは一瞬のことだった。
馬車の音を聞いて開かれた扉の中からオルタンスが走り出て来た。
「ご無事で…」
彼女はまたそう言った。
「世話になる」
ナポレオンはそれだけ言うと、いつものように肩をそびやかして館に入って行った。
サロンでは母親のレティツィア、兄のジョゼフ、弟のリュシアンとジェロームがナポレオンの到着を待っていた。
ナポレオンは真っ先にレティツィアの手を取った。
「無事でよかった」
レティツィアはオルタンスと同じようにそう言った。家族にとってはなによりもナポレオンの身の安全が気がかりだったのだ。ナポレオン自身の思惑とは反対に、家族はパリからマルメゾンまで無事に来られるかを心配していたのだ。同盟国軍はパリを包囲しようとしているという情報もあったから。
「結局アメリカに行くことになるでしょう」
ナポレオンは母親に報告した。
彼の退位を覆す民衆の動きが起こらなかったことで彼の選択肢はなくなっていた。
「ジョゼフから聞きました。私も一緒に行けたらと思うが」
「それは…」
ナポレオンは口ごもった。
「エルベ島には一緒に行ったではないか」
「エルベ島は地中海の島、私達の故郷のコルシカ島からも近いけれど、アメリカは遠い。無理ですよ」
ジョゼフが口を挟んだ。
「気候も違うし、生活様式も異なる。年齢からしてもとても無理です」
「それも考えようでね」
レティツィアは言った。
「この歳まで生きてきたからもう何が起ころうと思い残すことはない。若い人にはまだ先の人生の希望があるけれど」
彼女は66歳である。夫が死亡してから三十年、赤ん坊だった末っ子のジェロームも31歳。ボナパルト家の柱だったナポレオンがいなくなった後、ヨーロッパにいてもどういう生活が待っているか。むしろナポレオンとともにいたいというのが彼女の本音でもあった。
物静かな母親の言葉はナポレオンの心に響いた。ノートルダム寺院で華々しく執り行われた戴冠式の時には出席しなかったけれど、エルベ島にナポレオンが流された後、彼女はずっと彼のそばにいてくれたのだった。それがどれほどナポレオンの支えになったかしれなかった。
「アメリカは遠いから、一緒に行ってくれる人もないだろうし…」
ナポレオンは母に答えられなかった。
「そうは言っても、大西洋を渡るのは大変ですよ。とにかく今は無理です」
ジョゼフが言った。
彼はすでに同盟国軍がナポレオンの身柄引き渡しを要求しているという確かな情報を得ていたのだ。アメリカに渡ることが出来るかどうかも不確定である。
しかし、彼は今そのことを明らかにする気は全くなかった。オルタンスが言ったように、マルメゾンではナポレオンが希望を失わないように過ごさせねばならない。家族のあたたかさのなかで。
「ナポレオンがアメリカを征服したら、皆大きな船でアメリカに渡ることにしよう」
ジョゼフがそう言うと
「そうだ」
「そうだよ」
とリュシアンとジェロームが手を叩いた。
「私もぜひご一緒に」
オルタンスが口をはさんだ。
「そうだね」
とレティツィアも言った。
「また兄弟仲良くナポレオンを助けておくれ。私も精々養生して長生きしよう」
「お願いします」
ナポレオンの目には涙が浮かんでいた。
マルメゾン 3
